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日本の体操の父 坪井玄道(市川市出身)

 幕末の混乱期に生まれ、得意の語学を生かして体操教育の普及に努めた坪井玄道は市川市鬼越出身である。自ら体操教師として国民の体力向上と健康増進に貢献する一方で、卓球やテニスなど海外のスポーツの紹介にも力を注いだ。新シリーズ「20世紀の郷土と人」では地域ゆかりの先覚者を6回にわたって紹介していく。

市川市立歴史博物館の坪井玄道の石膏

市川市立歴史博物館の坪井玄道の石膏

展示棚に陳列されている普通体操で用いた亜鈴、こん棒、球竿及び愛用品

展示棚に陳列されている普通体操で用いた亜鈴、こん棒、球竿及び愛用品

市川市鬼越の生誕の地の顕彰碑

市川市鬼越の生誕の地の顕彰碑
MAP

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体操と戸外遊戯の両立を目指し体操教育に半生注ぐ

 坪井玄道は嘉永5年(1852)市川市鬼越村の農家の次男として生まれた。14歳まで同地で過ごすが医学を志し、親の反対を押し切り江戸に出て英語を学んだ。
 大政奉還の前年にあたる過渡期にあって、語学の必要性を時代の空気の中で敏感に感じ取っていたのかもしれない。
 図らずも明治に入って師範学校が設立されると、欧米文化導入によって先見性が開花していく。坪井はアメリカ人教師スコットの通訳を勤め、学校教育の場に身を投じていくが、その生涯を方向づけたのが明治11年、アメリカ人体操教師リーランドの通訳を担当してからである。
 同年に開設された体操伝習所で、リーランドの授業を生徒の前で通訳しながら、いつしか技術も体得してしまう。こうした背景には前もって授業を予習していたことが大きい。「私は何時しか体操に熱心になって了ったので、とうとう其後を引受けて体操の教師として世に立つようになった」と後に語っている。その後はリーランドの後継者として、体操教育の普及に傾注していく。
 リーランドの教授した体操は、亜鈴(あれい)・球竿(きゅうかん)・こん棒などを使ったもので、玄道はこれを普通体操と呼び、後にリーランド著を訳し、「普通体操法」として刊行している。
 普通体操は、健康な体と明るい人間づくりを目的とし、欧米に比べて体格が劣る日本人の体力向上と集団体育の実践の役割を担っていた。体操の効用に開眼した坪井は、初志の医学との相関性を感じ取っていたのかもしれない。普通体操は誰もが身ひとつでできることを目的とするため、徒手体操を中心に体操伝習所から全国に広まっていく。

 29歳で伴侶を得てから後半生を体操の普及に傾け、高等師範学校(東京教育大学の前身)、女子高等師範学校(御茶ノ水女子大学の前身)教授となり、49歳の年、文部省から1年間の海外留学を命じられ渡欧。英・仏・独の3カ国を訪れ、近代スポーツに大いに感化される。同時代の留学生には浅井忠、黒田清輝、滝廉太郎、夏目漱石、幸田幸などその後各界で活躍していく人々の名が連なり、坪井も語学を駆使して幅広い交遊関係を築いていく。留学先では日記をつけていたというが、残念ながら現存は確認されていない。
 体操と戸外遊戯の両立を目指していた坪井は、テニス、ベースボール、フットボールなど後の花形スポーツに発展していく球技を紹介している。イギリスからピンポン(卓球)を持ち帰り、国民に広めた功績は大きい。中でも遊戯性という意味からも球技の紹介にはとくに力を入れていたようだ。
 晩年は女子体操教育に力を入れ、「女子運動法」、「行進運動法」を次々に発表、女子体育の必要性を説くなど体操教育の中心的存在であった。

 ところが時代は兵式体操を重視し始め、軍事的な傾向を強めていく。さらに武的なスウェーデン式体操が導入されると学校教育に基づく坪井式の運動法を疑問視する声が上がる。その結果、57歳で体操教師を退くことになるが、「私は体操を以て、一生を終る積りでございます」と講演で語っているように引退後も体操教師としての信念を貫き通し、大正11年70歳で生涯を閉じた。
 大正14年、アメリカからラジオ体操が紹介され、後に国民体操として普及していくことになるが、その根底には玄道が目指した健康な体と明るい人間づくりに通じる部分が見られる。坪井が紹介した体操は、今日のスポーツの繁栄、さらにはお家芸とまでいわれた体操日本の基礎を固めたといえる。
 堀之内にある市川市立歴史博物館には、坪井玄道の石膏と生前の愛用品が陳列され、生涯を辿ることができる。一方、生家のあった国道14号に面した真間川のたもとに顕彰碑が建っている。