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美術工芸界の長老 香取秀真(印西市出身)

 印西市出身の鋳金作家香取秀真は、同郷の同じ鋳金作家津田信夫、先輩の洋画家浅井忠らと共にわが国の近代美術工芸の発展に大きな足跡を残した。3人はいずれも中学高校の授業で学んだ著名人である。香取は日本の伝統を重んじて近代工芸全般に大きな影響を与える一方、戦後は息子正彦と共に失われた梵鐘の復元制作に励み、正岡子規門下生としても活躍した。

香取秀真の銅像。美術館内の貸アトリエで若い金工作家が制作した

香取秀真の銅像。美術館内の貸アトリエで若い金工作家が制作した

秀真の代表作「鳳凰香炉」(昭和15年ごろ)

秀真の代表作「鳳凰香炉」(昭和15年ごろ)

仏具・香炉・花瓶・燭台・飲食六具。15点1具。生活用具を中心とした作品が多い

仏具・香炉・花瓶・燭台・飲食六具。15点1具。生活用具を中心とした作品が多い
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近代工芸発展を牽引 歌人でも名を残す

 香取秀真(かとりほつま)は本名秀治郎。明治7年(1874)元旦に現在の印西市船尾の農家に生まれた。5歳の時、佐倉の麻賀多神社神官郡司家の養子になったが、長じて明治30年(1897)に東京美術学校(現東京芸大)鋳金科を卒業し、鋳金作家の道を選んだ。
 その後、明治36年から昭和18年の40年間は、母校で鋳金史と彫金史を教えた。また同志と東京鋳金会(明治41年)や工芸済々会(大正14年)を設立する一方、帝室博物館学芸委員(昭和2年)、帝国美術院(現芸術院)会員・国宝保存会委員(同4年)、諸博覧会や工芸美術の協会等の審査員、幹事等を務め、自らも豊かな技術を駆使して古典的で品格高い作品を発表した。

 香取の体には学者肌と職人肌が微妙に同居していた。金工史の研究では前人未到の分野を開拓し、学術著書も多く近代工芸全般に大きな影響を与えたが、恩師岡崎雪聲を根っからの職人教授で大きな気持ちがないと評するように、香取自身にも頑固な職人の一徹さがあった。
 これが結局、同郷で1歳下の鋳金作家津田信夫(つだしのぶ)の思想と生涯相容れなかったことにつながる。香取の選んだ道は日本の伝統を重視し、津田は西洋志向の新しさを求めた。津田は国会議事堂正面玄関や衆参議院のブロンズ扉を制作し、日本橋の建設を監督するなど我々に大きな遺産を残している。
 香取の恩師岡崎は、皇居前の楠公銅像や上野公園の西郷像を全鋳した。それを側で学んだ香取は卒業後、明治33年(1900)パリ万国博で銀賞牌を受けるなど国内展示会でも多くの賞を受賞した。鋳物技法の巧みさはまさに職人芸であり、香取の持ち味でもあった。しかし、香取自身は恩師岡崎からいつも銅賞か三等賞位しか評価されなかったが、多くの博覧会や工芸美術の協会等の審査員、幹事等を請われ、他人の評価が先になったことを残念がっている。
 こうした香取だが、明治32年には正岡子規門下に入り歌人としても名を残した。歌集に「天之神榊」「還暦以後」がある。伊藤左千夫、長塚節、高浜虚子、芥川龍之介など文化人との交流も多かった。

 香取の長男正彦は、小学校時代までを佐倉で過ごした。大正14年(1925)に父親と同じ東京美術学校鋳金科を卒業し、同年パリ万国博で銅賞牌を受賞した。すでに父親の作風を乗り越えて伝統的な香りの上に新感覚を加えた作品として評価されている。
 戦後、香取父子は戦争中に供出させられた梵鐘の復元に取り組み、父子共銘の梵鐘を制作した。昭和29年(1954)新年歌会に召人として参内し、宮中を辞した後風邪をこじらせて81歳で生涯を閉じた父秀真の亡き後は、「平和余韻の鐘」と称して160を越える梵鐘を制作し、人間国宝に認定されている。また昭和62年(1987)には芸術院会員に推挙されたが、翌63年89歳で亡くなった。
 甚兵衛大橋の印旛捷水路沿いに建つ「メタルアートミュージアム」は、この香取父子や津田の作品を常設展示し、2人と同時代の作家作品も収蔵している。「中央では喧嘩していた2人だが、こうして一つ屋根の下に展示できるのも里人の思いやり」と佐倉市民の北詰栄男館長は安堵する。
 同館中庭にはトラックのコンテナを再利用した茶室「昆天奈庵」がある。5~10人のお茶会や句会が可能で、平日2000円で全日使える。