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野口英世育ての親 血脇守之助(我孫子市出身)

血脇守之助(東京歯科大百周年記念誌から)

血脇守之助
(東京歯科大
百周年記念誌から)

 明治、大正、昭和にわたって歯科医師界に多大な功績を残し、戦後東京歯科大学を設立した血脇守之助は我孫子市の出身。手賀沼湖畔には「血脇先生謝恩の碑」が建っており、その功績を後世に伝えている。血脇はまた、野口英世育ての親としてもよく知られる。薄給の大半を学費に提供して、野口に医学を学ばせた。

 

手賀沼湖畔に建つ血脇先生謝恩之碑。昭和53年に都市改造計画で生家跡から移設された

手賀沼湖畔に建つ血脇先生謝恩之碑。昭和53年に都市改造計画で生家跡から移設された

市内の生家跡(右側)は現在駐車場になっている

市内の生家跡(右側)は現在駐車場になっている

守之助が寄贈した伽羅の木はポールの左奥にある

守之助が寄贈した伽羅の木はポールの左奥にある
MAP

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歯科医師界に多大な功績 野口英世の学資も援助

 血脇守之助(ちわきもりのすけ)は明治3年(1870)、我孫子宿の旅篭「かど屋」の長男として生まれた。我孫子宿は、現在の旧成田街道沿いの興陽寺(こうようじ)から江戸時代の名主・小熊邸辺りまでの東西約600mの農村であった。かつては上野彰義隊の敗残兵が走り抜け、将軍慶喜が新選組に警護され水戸へ落ちていった街道だけに、江戸時代の生活が色濃く残る当時は往来もにぎやかで人馬の出入りが激しかった。
 宿場を代表した本陣は、その後一部が子の神大黒天近くの旧東京帝大教授・村川堅固の別荘内に移築された。
 旅篭かど屋はそんな宿場の中ほど、大光寺正面の右手にあった。父誠之助はかど屋定宿の水戸藩士の紹介で入婿となったが、元彰義隊士の一人であったという。

 守之助は本来加藤姓だが出生後に血脇家の養子となった。これは戸籍上だけのもので、実際には実父母のもとで養育された。
 しかし、4歳の時、母たきと死別し、まもなく父とも離別した。当時この地方には、妻が死ぬと婿は家を去るという風習があり、その後は祖父栄助に育てられた。
 我孫子尋常小学校時代の守之助は秀才の誉れ高く、杉山英校長の熱心な教育を受けた。向学心はますます高まり、修学4年を半年早く卒業した後は興陽寺や近郊の名望家を訪ねて勉学した。後年、守之助は杉山校長へ伽羅(きゃら)の木を贈り、遺された杉山夫人の世話を親身に行った。この時の伽羅の木が現在、我孫子市役所構内に移されている。
 守之助は、13歳で東京へ遊学した。文明開化の真っ只中で英語の重要さを認識し、東京英学校、共立学校、明治英学校などで学んで慶応義塾別科に入学した。学生時代は我孫子にゆかりがある嘉納治五郎の門弟にもなっている。
 明治22年(1889)卒業後、守之助は、福沢諭吉が創立した時事新報社に入社するが、業務中に重傷を負いやむなく退社して帰郷する。不遇の一時期を我孫子で過ごした後、やがて新潟県三条の中学英語教師に赴任する。
 ここで守之助は、英字新聞紙上に「dentist」という単語を見つけ、歯科医という職業があることを知った。その頃三条でアメリカ帰りの田原利に出会い、歯科医が一般医者から独立した歯の専門医で、社会的にも尊敬されていることを知った。これが人生の転機となり、23歳の守之助は歯科医になるため再び上京、東京で唯一の高山歯科医学院に学ぶ。そして2年後に待望の歯科医師となり同学院の教師兼監事になった。

 守之助が野口英世と出会ったのはこの頃である。出張診療先の会津若松で、医学原書や病理学書を熱心に学ぶ英世に、東京に出て来たら訪ねて来いと声をかけた。
 それを信じて英世は本当に福島県から上京してきた。当時の守之助は薄給で生活にも苦労していたが、29歳で同学院を継ぎ、厳しい経営の中で英世を寄宿舎に泊めて医学校に学ばせた。
 この年、英世はアメリカへ出発する。医師試験に合格し伝染病研究所に勤めたが、学歴社会の日本では才能を生かしきれなく、自由な天地を夢見ての渡米だった。しかし、英世の浪費ぐせは途方もなく渡航費も送別会と称して飲んでしまうほどだった。守之助はこの時英世が乗船するまで切符を手渡さなかったという。それほど英世援助で苦労を重ねた。守之助30歳英世24歳の時の逸話である。
 1年間中国に滞在後、守之助は同学院を東京歯科医学院に、明治40年(1907)には東京歯科医学専門学校に発展させ、戦後これが東京歯科大学となった。また明治36年(1903)に大日本歯科医会を創立し、一般医者から独立した歯科医を世間に知らしめた。さらに歯科医療の向上、歯科教育の振興にも力を注ぎ、大日本歯科医会理事、日本歯科医学会長、日本歯科医師会会長を歴任、昭和22年(1947)77歳で没した。