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利根川河口と流域

 利根川流域、とくに銚子・水郷エリアにはかつての舟運時代を彷彿させる名残があった。大河利根川の河口は大きく口を開いて大海原と同化し、その水平線から昇る太陽を飲み込む。今回はそんな利根川べりを上ってみた。

雄大な利根川の流れ

利根川の河口(銚子ポートタワーから)

利根川の河口(銚子ポートタワーから)

小見川町の中央を流れる黒部川両岸には利根川水運の面影が残っている。

小見川町の中央を流れる黒部川両岸には利根川水運の面影が残っている。護岸の奥から威勢のよい声が今にも聞こえてきそうだ

津宮河岸跡。

津宮河岸跡。両岸を結ぶ渡し舟は下船した岸で帰りを待つ。対岸から声がかかれば回送する。下船した人たちは土手を駆け登り、常夜灯の前を通って通学通勤する

 利根川の河口は広い。銚子市と対岸の茨城県波崎町を結ぶ銚子大橋は延長1450m、その上流8キロ先で建設中の銚子新大橋でも1000mを超す。
 舟運の時代、仙台など奥州諸藩の海船はこの河口を5キロほど上って松岸の河岸場へ着いた。この松岸が利根川上下の船の継ぎ場で、諸藩の江戸廻米などが川船高瀬船に積み替えられた。松岸の上流4キロにある野尻の河岸場は東総方面からの物資積出河岸だが、ここはまた上流の木下河岸を出発した銚子磯めぐり遊覧船の上陸地でもあった。現在、これらの河岸跡は護岸され、ヨットや釣りの溜り場に変身しているが、当時の銚子湊は東廻り海運の寄港地となり、海運と利根川水運の接点として賑わった。
 このように海に面した河口の河岸を湊(中世の津)といい、外海に面し堤防で囲った港とは区別して呼んだ。

舟運の名残、今も

 これ以前、仙台藩や幕府天領の江戸廻米は海路で直送されていたが、このルートは黒潮が日本本土に近づく房総沖をいったん伊豆下田に入って風待ちし、その後江戸湾に入るという航路であった。しかし、初夏から土用までの3ヵ月間しか使えず、まだまだ危険も多かった。
 その後、石巻湊~那珂湊~涸沼~北浦~潮来のルートが開発されたが積み替えが煩雑過ぎ、銚子湊の中継化で潮来の奥州諸藩の蔵屋敷は次第に銚子へと移転して行った。関宿経由の利根川ルートはこれらの難点を解消するすばらしいルートであった。
 高瀬船は利根川水運最大の荷船で米500~600俵、大型船は800~900俵積載したという。廻米の他には木材や薪、炭、一般の米穀、そして銚子産の鮮魚、干鰯、〆粕、醤油などを江戸へ運び、帰り便で塩などを持ち帰った。

 国道356号線沿いの東庄町・諏訪神社は天保水滸伝の舞台であり、周辺は葦の原であった。そして、小見川町の中央を流れる黒部川もまた利根川水運で栄えた河岸であった。川舟の係留が今でも見られ、護岸の奥には醤油会社の古い土蔵や事務所が当時の名残を止めている。
 香取神宮一の鳥居(浜鳥居)は利根川に面した津宮河岸である。木下河岸から下って来た参拝者はここで下船した。
 現在も下船する人たちがいる。向こう岸に住む佐原市津宮新田地区の人たちで川幅約600mを5~6トンの小舟が4分ほどで人を渡す。定期的利用者は小中学生や高校生、一般人など20人足らず。船頭の岡野茂兵衛さんは今年72歳。10年来毎日7~18時半まで務め、「乗船者が毎日決まっているから最後の中学生が戻ってくるまで待っています」と、川面に沈む夕陽に顔を照らしていた。

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