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「牧」関係の地名 船橋編(上)

 船橋市域は江戸時代の幕府直轄の野馬放牧場で知られる。当時の下総台地には佐倉七牧・小金五牧が置かれ、2000頭の馬が放し飼いされていた。これに関係した地名が市内各地に残っていたが、戦後の町名制や新住居表示の実施でほとんどが消えてしまっている。由緒ある地名の復活を望む声も次第に薄れ、逆に新しい町名が誕生する動きもある。新シリーズではそうした地名や町名の由来を紹介していきたい。

放牧場の片鱗が町名や遺構に

二和小学校南側の勢子土手

二和小学校南側の勢子土手。道路中央分離帯のように約400m続く。

夏見木戸があったと思われる夏見台6-1高根木戸があったと思われる新高根6丁目と高根台7丁目の境界にある交差点。

〈写真右〉高根木戸があったと思われる新高根6丁目と高根台7丁目の境界にある交差点。
〈写真左〉夏見木戸があったと思われる夏見台6-1。周辺は船橋市運動公園になっている。

二和の勢子土手の一部

二和の勢子土手の一部。

 野馬飼育条件に適した下総台地
 村人は生活防衛に土手を築く

 船橋市域は小金五牧の一つ、下野牧の北半分にあたる。このエリアは二和・三咲地区から習志野台地区にかけてだが、牧全体の規模はさらに千葉市の花見川西岸まで及び、市内中央部の台地を広い下野牧が横断していたことが分かる。
 このように下総台地が放牧場に適していたのは、台地全体が関東ローム層に覆われて土地が乾燥し、平坦であったため馬の集散が容易だったこと、さらに台地を細長い半島のように区切る川がたくさんあってその川上(谷頭)に馬の水呑み場があったなど、地形的な理由による。
 このため、この地域では古くから軍馬の飼育が行われた。鎌倉時代には千葉氏の軍事力となった軍馬が育てられ、江戸時代には徳川幕府の広大な野馬放牧場、明治時代以降は畑作農村の開墾と陸軍操練場として終戦まで続いた。
 野馬放牧時代には牧周辺の村は野付村と呼ばれ、年1回行われる野馬捕りの勢子や御林の手入れ、死んだ馬の始末など牧全体の管理の仕事を言い付けられていた。しかし村人が一番困ったことは野馬が畑を荒らすことで、この防止のために野馬土手を築き、その一部に人間が通れる出入口を開けた。これが木戸で、「高根木戸」もそうした一つであった。

 現存する勢子土手に往時の夢
 牧関係地名はほとんど消える

 木戸そのものは通り口に横棒を2本渡した簡易なものであったが、集落や耕作地を野馬の被害から守ったり、野馬を追い込む「込(こめ)」にも使われた。しかし、いずれも村人の生活や旅人の通行には大切な要衝であった。
 従って、この木戸を中心に木戸口・木戸前・木戸内・木戸場・木戸脇などの地名が名付けられた。現在は住居表示の実施でこうした地名は消えたが、高根台地区に「高根木戸」が新京成電鉄の駅名や近隣公園の名前に、「木戸脇」が幼稚園名として残っているくらいである。
 一方、二和小学校の南側には道路の中央分離帯のように400mほど勢子土手が残っているが、これは野馬捕りのために作られた土手で、往時を彷彿とさせる。

 町名に僅かに残る牧関係の名前
 下野牧跡は一大住宅地に

 現在の住居表示から牧関係の町名を探すと「馬込町」がある。馬込は、大勢の勢子が土手で囲まれた込(こめ=木戸)へ探し出した野馬を追い込んで生け捕りした、その場所をいった。
 また「印内」は垣根で囲んだ土地を意味し、勢子が野馬を追い込んだ込(木戸)の内側にあったのでそう呼ばれている。「七林町」は江戸時代に幕府所有の御林が多くあったところで、「おんばやし」と呼ばれていたのがなまって七林になった。野馬が冬の寒さや夏の暑い日差しを避けたところでもある。
 一方、二和地区には下野牧の御用地があり、咲が丘地区には大込と捕込(とっこめ)が置かれ、追い込んだ野馬を各地に移出した歴史ある土地だが、町名や地名には残らなかった。
 かつては広大な野馬放牧場の原野だった下総台地は、その後開墾地として開かれるが、ここ40年来一大住宅市街地に急変し、その変貌ぶりは今も続いている。

《参考資料》ふなばし朝日「船橋の町名・地名」
滝口昭二著「船橋小字地図」他

エリア情報

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