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船橋中心部の地名 船橋編(下)

 江戸時代の船橋は漁師町と宿場町で栄えた。その中心地は五日市・九日市・海神の3村だが、現在の本町一帯を占めた九日市村には、漁業と旅籠商売で他の2村を圧する経済力があった。また宿場町を取り巻いて、北には中世の中心地・夏見御厨、東には香取神宮につぐ二の宮で庶民文化の中心・二宮神社、西の台地には古代の中心地・栗原郷があった。今回はそうした船橋中心部に残された地名を探ってみた。

歴史的地名や合成・新町名も

船橋市街を見渡せる薬王寺脇の坂道

船橋市街を見渡せる薬王寺脇の坂道。夏見御厨はこの手前にあった。

葛飾神社三山の二宮神社

〈写真右〉三山の二宮神社。神々しさが漂い、お参りする人も多い。
〈写真左〉葛飾神社。神社手前の勝間田や二子の浦から当時の武士たちが船で鎌倉に向かったという。

夏見御厨があった日枝神社(夏見2丁目)

夏見御厨があった日枝神社(夏見2丁目)

小舟を連ねて橋にした船橋
旧地名が残るバス停の名称

 江戸時代の「船橋」は、船橋五日市村(いつかいちむら)・船橋九日市村(ここのかいちむら)・船橋海神村(わたつみむら)を総称した名前であった。その由来も海老川河口に小舟を並べ、その上に板を敷いて橋がわりにしたことによる。また「五日市・九日市」は、海老川を境に現在の東の宮本側、西の本町側でそれぞれ5の日、9の日に市が開れていたことに由来する。一方「海神」は、日本武尊がこの地に上陸して入日(いりび)神社に神鏡を祀り、海の神として崇めたことが海神地名になった。
 船橋の海は江戸時代、将軍家に新鮮な魚を献上する「御菜ケ浦(おさいがうら)」と呼ばれ、漁師町は大きな力をもって発展してきた。本町2~3丁目一帯の旧漁師町には、舟溜りの「舟町(ふなまち)」、寺が多い「寺町」、納屋が置かれていた「納谷(なや)」等の地名があった。船橋大神宮の北側の坂「宮坂」は東金街道の起点だが、明治元年の戊辰戦争では市街の激戦地であった。
 この坂上が起点の宮本高根金杉線は昔の街道だが、その途中のバス停名、吹上(ふきあげ)・子の神(ねのかみ)・馬込台・聖人塚(しょうにんつか)・大慶山(おおけやま)、また周辺の城之内(じょうのうち)・向畑(むこうはた)などは、すべて昔の地名の名残である。「吹上」は風が吹き上げる高い所で、「子の神」は子宝の神様があった所、「大慶山」は延宝年間の開拓地で吉兆を期待した意味がある。

夏見は中世の中心地
三山には古来の庶民文化が

 夏見は平安時代、伊勢神宮に寄進された荘園の一部で夏見御厨(なつみみくりや)と呼ばれた。この「夏見」は景行天皇行幸の折、地名を尋ねられた里人が要領を得ないまま「いま菜を摘んでいます」と答えたとか、天禄時代に舟の出入りが多くて「南津海(なつみ)」と呼ばれていたのが転じたという。この地域の八栄小学校や八栄橋は旧八栄(やさかえ)村の名残で、「米ケ崎(こめがさき)」は大神宮の新嘗祭(にいなめさい)で他村に率先して新米を神前に供えたので「米が先」と呼ばれ、それが転じた。
 「三山(みやま)」は二宮神社を中心に発達し、神の御山が転じた地名で、神社の七年祭りには近在9社の神輿が集まり庶民的な日本の祭りが繰り広げられる。隣接地の「薬園台(やくえんだい)」という地名は、ここに幕府の薬草園(下総薬園)があったので名付けられたもの。この薬園台の地名は、昭和48年の住居表示の実施で、「園」から簡単な「円」に変った。「円」では意味がなくなると当時、多くの住民の批判があった。これも時代の流れで仕方なかったのだろうか。地名は変ったが、駅名(薬園台駅)、学校名(薬園台高校)、郵便局名(薬園台局)などに旧名が残っている。

行田は行徳と田尻の合成
九と日を組合わせた旭

 下総国葛飾郡「栗原郷(くりはらごう)」は平安時代以来の地名で、江戸時代は4千石だった。明治22年、郷内8村の合併の際、葛飾神社に因んで「葛飾町(かつしかちょう)」となった。葛飾は葛(くず)が生い茂る豊かな土地の意味だが、現在は船橋市の一住居表示で残っている。
 「本中山(もとなかやま)」は市川市内の中山に較べてこちらが本家の中山という意味である。
 木下(きおろし)街道の沿線は江戸時代、行徳や田尻の人たちの手で新田開発が盛んに行われた。「行田(ぎょうだ)」が行徳と田尻の合成であることはそれを意味する。「塚田」は前貝塚・後貝塚(うしろかいづか)・行田新田の合成だが、後貝塚はその後、氏神熱田神社の祭礼日9月9日に因んで九と日を組み合わせ、印象のよい「旭町(あさひちょう)」に改称した。
 一方、海に面した栄町(さかえちょう)・西浦・潮見町(しおみちょう)・日の出・若松・高瀬町(たかせちょう)は海面埋立地で新しい地名である。繁栄や威勢のよい意味がある。「南本町(みなみほんちょう)」は塩田跡で、戦後戦災者や引揚者など都内の疎開者が多く住み着いて都疎浜(とそはま)とも呼ばれていた。

《参考資料》
船橋市広報課刊「ふなばし百景」船橋市総合教育センター刊「古代の船橋」成瀬恒吉著「葛飾誌」日枝神社氏子総代会刊「夏見日枝神社縁起」谷川彰英著「地名教室」他

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