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群境と分水嶺の地 鎌ヶ谷編

 鎌ヶ谷市は戦後、のどかな農村から東京都のベッドタウンとして急速に開発された。それは、かつて広大な野馬放牧場の中の小さな村が、明治新政府の開墾政策で人口が急増した経緯とダブる。市内は北西から南東へ分水嶺が走り、北部の水は印旛沼へ、南部の水は東京湾方面にそれぞれ流れている。また市域はかつての3郡、葛飾・印旛・相馬の境界にあたる。今回はそうした地形、歴史の交錯地を訪ねた。

古い集落や開墾村の名残など

鎌ヶ谷市の象徴「鎌ヶ谷大仏」

鎌ヶ谷市の象徴「鎌ヶ谷大仏」

佐津間城址貝殻山公園にある小金中野牧の野馬像

〈写真右〉貝殻山公園にある小金中野牧の野馬像。国道464号沿いに小金中野牧の込跡がある。
〈写真左〉佐津間城址。中世の平山城で千葉氏の分家相馬氏が築城した。土塁と空堀が残っている。

鎌ヶ谷市の総鎮守八幡神社

鎌ヶ谷市の総鎮守八幡神社。境内はきれいに掃き浄められ、周辺の緑も気持ちがよい。

鎌形の谷・鎌ヶ谷
道のほとりにはない道野辺

 鎌ヶ谷市は、江戸時代の広大な牧の中を縦断する木下(きおろし)街道の継場(つぎば:小規模の宿場)から発達したイメージが強い。しかし江戸時代の市域は、中央部の初富(はつとみ)地区が小金中野牧の広大な牧場であり、北部の佐津間(さつま)・粟野(あわの)は下総国相馬郡、東・南部の鎌ヶ谷・道野辺・中沢は下総国葛飾郡、北東部の軽井沢地区は下総国印旛郡といった3郡の境目であった。
 「鎌ヶ谷」は元々宿場の北にあった小さな谷の名で、その谷は鎌の形をして萱(かや)や蒲(がま)が群生していたことに由来する。
 当時、鎌ヶ谷宿の北側は中野牧(なかのまき)で前方には荒涼とした原野が広がり、筑波山を見渡せた。秋には萩、桔梗、女郎花(おみなえし)、刈萱(かるかや)、尾花が咲き乱れ、小栗がはじける中を馬や鹿が草を食べ群れ遊んでいた。
 こうした鎌ヶ谷の自然美を江戸時代の文人墨客、松尾芭蕉は紀行文に、小林一茶や三級亭魚文(ぎょぶん)は俳句に、そして幕末の志士渡辺崋山は、鎌ヶ谷八幡宮をバックに牧の風景をスケッチして残した(重文四州真景図「釜原の図」)。
 「道野辺」は木下街道から奥まった所だが、大きな道のほとりの意味がある。鎌倉時代以前からの古い集落で、江戸時代は本多氏の領地。同氏が駿河国田中藩主になった後は同藩飛地となった。

沢の中ほどにある中沢
水の涸れた沢・軽井沢

 「中沢」も鎌倉以前の古い集落で、江戸時代は田中藩飛地であった。地名は下総台地に入り込む谷(沢)の中ほどを意味した。この地区には多くの貝塚遺跡がある。なかでも中沢貝塚は県内屈指の縄文後期馬蹄形大貝塚で、市民の憩いの場貝柄山(かいがらやま)公園の名の由来になっている。同貝塚第3次調査は貝塚中央部を南北に縦断するガス管埋設に伴う緊急調査だったが、その結果、貝塚の範囲・規模が確定し、以降の調査に大きく寄与した。
 北東部の「軽井沢」地区は林や畑が多く残り、野菜栽培が盛んな地区である。軽井沢地名は東日本に多いが、鎌ヶ谷の場合は涸・井・沢で水の涸れた(涸れやすい)沢、荷物をかる(担)って運ばなければならない沢に由来する。

薩摩の人が移住した?佐津間
入植1番目の開墾地・初富

 北部の佐津間・粟野は林や畑が多く残り歴史の古さを見せるが、東武野田線六実(むつみ)駅に近くて市街化が進んでいる。「佐津間」は平安時代の相馬御厨(みくりや)で、江戸時代は田中藩飛地であった。旧家渋谷家が薩摩の渋谷家と同姓から九州薩摩の人の移住説があるが、狭(さ)・詰(つま)またサ・端(つま)から地形上台地の端を意味したという。「粟野」も田中藩飛地だが、一帯は粟の生えている野だったと考えられる。また谷間・境目の意味があるのは、古くは3郡の境目であったからだろうか。
 市域中央部「初富」の地名由来はよく知られている。明治維新後、新政府が打出した牧の畑作農村化で最初に入植した開墾地である。開墾地には当初から入植順番と縁起よい字を組合わせた地名が付けられ、それが正式の村名になった。
 初富に次ぐ開墾地は、入植順に二和(ふたわ)・三咲(みさき)・豊四季(とよしき)・五香(ごこう)・六実(むつみ)・七栄(ななえ)・八街(やちまた)・九美上(くみあげ)・十倉(とくら)・十余一(とよひと)・十余二(とよふた)・十余三(とよみつ)の村々で全13村にわたった。

《参考資料》
鎌ヶ谷市教育委員会「鎌ヶ谷市史研究・創刊~5号」同「鎌ヶ谷のあゆみ」綿貫啓一著「ふるさと地名」暁印書館「小林一茶と房総の俳人たち」千葉県広報協会「古街道を往く」他

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