松戸編(中)
中世豪族と地名

 松戸の古代名は「馬津郷(うまつのさと)」であった。その後、マツサト、マツトと転じてマツドとなったが、現在の「松」は当字である。それは馬が多く配置された宿駅であったこと、松の木の多い里であったことに因む。地形的には、松戸は太日川(現在の江戸川)の砂州上にあって渡船場に好都合であり、国府と結ぶ官道の接合地点でもあったなど、古代から下総国の交通の要衝であった。それだけに多くの歴史が刻まれている。

城址や家紋、豪族名が地名に

千葉氏家紋を地名にした三ヶ月
二ッ木から林姓が生まれた?

 松戸市周辺には、本城・支城・出城など中世の城郭跡が48ヵ所もあり、ゴロ合わせで「いろは城」と呼ばれている。

 そうした城の代表が大谷口の小金城址である。平成9年には、西側遺構の畝堀や障子堀、土塁などが復元されて大谷口歴史公園になった。本丸跡は公園から徒歩10分ほどの坂上に石碑があるが、南北600m、東西800mの城域は、県内最大規模の中世城郭である。「大谷口(おおやぐち)」は城の南側にあった谷頭の出入口のことで、それがそのまま地名になった。

 小金城主・高城氏は、中世の下総国一帯を支配した千葉氏の家臣で、東葛地域を治めた。勢力拡大とともに栗ヶ沢城から根木内城、小金城へと地の利の良い場所へ移動して、小金地区はまさに中世の豪族高城氏の発祥の地になった。

 小金地区二ッ木台には、鎌倉時代末期から千葉頼胤(よりたね)の城館があった。蘇羽鷹(そばたか)神社はその千葉氏の守護神で、周辺地名の「上ノ台(うえのだい)」「作台(さくだい)」などは城館の存在を示した名残である。「三ヶ月(みこぜ)」は千葉氏の家紋月星の三日月を地名にした。

 「二ッ木(ふたつぎ)」の地名には、高城氏の家臣林氏が定着し姓を分解したとか、元々あった二木の地名から林姓が生まれたという二つの説がある。

栗原下本郷と区別した上本郷
南花島も埼玉県幸手町と区別

 「上本郷(かみほんごう)」にある市内最古の神社・風早(かざはや)神社は千葉常胤(つねたね)の孫・風早四郎胤康(たねやす)の居館址であった。本郷はそれぞれの郷の中心地を意味し、風早郷近隣では栗原郷(船橋市内)に本郷地名があった。このため江戸初期の検地で上本郷、下本郷と区別され、その後下本郷は栗原本郷と呼ばれ、上本郷だけがそのまま残った。

 同様に「南花島(みなみはなしま)」は、地形的に下総台地を背にした島に見えたことからそれを美しく表現した地名になった。頭に南が付いたのは、埼玉県幸手町の花島に比べて松戸の方が南にあったからである。

 「上矢切(かみやぎり)・中(なか)矢切・下(しも)矢切」も江戸時代の検地で区別されている。地形の谷切れから転じた地名であるが、全域が天領や旗本領になっていた。

相模台は北条相模守の居城跡
陣屋の南にあった陣ヶ前

 松戸駅近くの戸定台(とじょうだい)も中世の城址だがまた小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(よしあきら)の陣構え跡、松戸宿最初の旗本領主高木筑後守の陣屋跡、将軍鹿狩りの小休止所跡ともいわれる。国道6号松戸トンネルの柏側周辺を「陣ヶ前(じんがまえ)」というのは、この陣屋を指す。

 「相模台(さがみだい)」はかつて陸軍工兵学校跡で中央公園には赤レンガの門柱や衛士の詰所が残っている。この地名は、鎌倉時代に北条相模守長時(ながとき)が岩瀬坂に築城して住んだことから呼ばれるようになった。

 この相模台は第1次国府台合戦の激戦地であり、小田原北条氏綱(うじつな)と里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った。第2次国府台合戦は26年後、矢切大坂を中心に氏綱の子・氏康(うじやす)と義堯の子・義弘(よしひろ)が激戦を展開した。

 「根本(ねもと)・中根(なかね)」は、弘法大師が1本の木から3個の薬師如来像を作った際、根本に近い部分を吉祥寺本尊、中間を東照院(現中根寺)本尊、末を印西市の寺の本尊にしたことから、それぞれ根本村、中根村、浦部村と呼ばれたという。

参考資料

  • 崙書房刊「東葛観光歴史辞典」
  • 山本鉱太郎「旧水戸街道繁盛記」
  • 坂本伴治編「松戸の地名の由来」
  • 横塚和男編「京葉散歩・松戸市編」
大谷口外番場の小金城本丸跡

大谷口外番場の小金城本丸跡

大谷口歴史公園

大谷口歴史公園。平成9年に西側遺構が復元された。別名開花城とも呼ばれ、佐倉城に匹敵する県内最大規模の中世城郭の一部がうかがえる。

旧陸軍工兵学校跡の赤レンガ門柱と衛士詰所 / 三日月神社

〈写真右〉三日月神社。三ケ月地区の氏神。中世の豪族千葉氏の家紋の月を地名にした。
〈写真左〉相模台にある市中央公園の旧陸軍工兵学校跡の赤レンガ門柱と衛士詰所。

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