松戸編(下)
小金中野牧と地名

 松戸市域は、江戸時代の広大な小金牧の中心地・中野牧にあたる。野馬管理面でも重要な役割を果し、金ヶ作には馬匹改良の陣屋が置かれ、本土寺周辺には小金牧佐倉牧の野馬奉行所が設けられた。こうした中野牧は野馬捕りの他、将軍の鹿狩りや水戸家の鷹狩りの場にも供された。今回は、これらに因んだ幾つかの史跡や地名を紹介します。

御立場跡や陣屋跡が地名に

中野牧は小金5牧の中心地
常盤平に馬匹改良役所が

 中野牧は現在の常盤平団地を中心に五香六実、松飛台、初富(鎌ケ谷市)、高塚新田に及んだ。特に幕府は中野牧・下野牧産の馬を重視して「金ヶ作役所」(陣屋)を設け、馬匹(ばひつ)改良を促進した。この陣屋が常盤平さくら通りの八柱入口付近にあったので辺りを「陣屋前(じんやまえ)」と呼んだ。

 常盤平の前身「金ヶ作(かねがさく)」は江戸時代以降の村名である。作は柵や土手を意味し、御囲場(おかこいば)とも呼ばれて周囲を野馬除土手が囲んでいたという。その名残が常盤平6丁目にある。

 「野馬捕り」は毎年1回実施し、捕獲した野馬には焼印をおし、軍馬・農耕馬・病気の馬・放牧継続の馬に選別した。野馬捕りは20日間ほどかかり、勢子たちへの手当は1日米7合~1升だった。また遠来の見物人で松戸宿が満員になったという。

 野馬奉行所は奉行・綿貫夏右衛門(世襲)の邸宅で、現在は北小金駅前に末裔の綿貫正治邸がある。幸谷観音の「野馬捕り絵馬」は市文化財だが明治時代に同家が奉納した。

牧では鹿狩りや鷹狩りも
将軍は「御立場」から上覧

 江戸時代の小金町には水戸家の本陣(小金御殿)が置かれ、江戸への往復や「鷹狩(たかがり)」の宿舎に使用した。本陣裏には「御鷹場(おたかば)役所」を設けて鷹匠の育成や鷹の飼育管理、鷹狩りの準備をさせたという。

 将軍家の「御鹿狩(おししかり)」は吉宗2回、家斉1回、家慶1回の計4回実施された。鹿狩りは3日3晩にわたり、御狩場には旗本など武士2万人、武蔵、常陸、上総、下総の国々から中野牧まで獲物を追い込む百姓勢子10万人が動員されたという。

 松飛台にある「御立場(おたつば)」は将軍が鹿狩りを見物した上覧所跡で、高さ10mの塚の頂きに15m四方の桧づくりのご座所が設けられたという。

野馬も子和清水でノドを潤す
狩り場往復に使った御成道

 牧の中には御囲(おかこい)、突柵(くぐりませ)、駒形、野見塚などの字名がある。五香十字路付近は立体交差工事中だが、昔は小金名主五助が支配した木戸跡で「五助木戸」と呼ばれた。昔も交通の要衝で、鮮魚(なま)街道も木戸を通過した。常盤平団地入口の「子和清水(こわしみず)」には、親が飲めば古酒(うまざけ)だが子が飲めばただの清水という養老伝説に似た話があるが、この湧水は鮮魚街道の水切場や野馬の水呑場でもあった。

 御鹿狩の将軍も小休止所のあった「陣ヶ前(じんがまえ)」を経由してこの街道を往復した。野菊野団地東側の細い一方通行が「御成道(おなりみち)」で、江戸城を午前1時に出発して松戸には同6時、御狩場には同8時頃到着したという。

 「松飛台(まつひだい)」は旧松戸飛行場の名称を残し、「元山(もとやま)」はくぬぎ山同様に小金牧特産物の木炭の植林地域であった。「常盤平(ときわだいら)」「牧の原」「野菊野」は団地名公募で地名になった。

参考資料

  • 崙書房刊「東葛観光歴史辞典」
  • 山本鉱太郎「旧水戸街道繁盛記」
  • 坂本伴治編「松戸の地名の由来」
  • 横塚和男編「京葉散歩・松戸市編」
子和清水

「子和清水」地名は小金牧に数ヵ所ある

金ヶ作役所

「金ヶ作役所」陣屋跡で馬の改良センター的な機能をもっていた。以前は30mほど八柱寄りにあり、陣屋の井戸もあったという。

史蹟「御立場」跡

史蹟「御立場」跡。鹿狩りは旗本など武士の士気を鼓舞したが、野馬放牧に有害な動物駆除の目的もあったという。

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